~帯屋捨松の世界~その個性の秘密とは!?

染織めぐり
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大人気の「帯屋捨松」

西陣織元、帯屋捨松をご存じでしょうか?
ひと目見ただけで「捨松」の世界観を感じさせるその個性。「既にファンです」という方も多いのではないかと思います。

帯屋捨松のインスタグラム(@obiyasutematsu)は、フォロワー1万2千人を超えています(2021年10月現在)。
呉服メーカーはもとより、着物業界全体でみても1万人を超えるアカウントはそうそうありません。

人の心をとらえてやまない”帯屋捨松さんのものづくり”
個性的な創作の秘密を織元の歴史から紐解いてみたいと思います。

ガンダーラの花

捨松の帯

1854年より西陣の地で、帯を制作してきた帯屋捨松。

近年の作品タイトルを見てみると、
「ガンダーラの花」「ベンガル花文」「地中海つる花」「オリエンタル唐花文」「モハメッド献上文」「ヨーロッパ裂取文」・・・などなど
異国情緒あふれるテーマに目を惹かれます。

つる花唐草更紗
装飾花段文
ベンガル花文
地中海つる花
オリエンタル唐花文
モハメッド献上文

もちろん古典の意匠も数多くあります。
しかし、目に新しいデザインながら、どこかほっこりする日本らしさも感じる・・。

歴史ある織元でありながら、常にチャレンジングで心躍る文様、そして配色をみせてくれるのが帯屋捨松さんなのです。

捨松の転換点

そんな帯屋捨松にはどんな歴史があるのか。その創作の源泉はどこにあるのか。こちらの本を引用しながらみていきたいと思います。

『女性論文庫 織りびと染びと』 草柳大蔵 大和書房

本書の72~89ページ「徳田義三-あしらいをもって作る帯」が、帯屋捨松を取り上げた章となっています。

ありていにいえば、昭和三四年のころ、帯屋捨松は崩壊の一歩手前に立っていた。織機は二百五十台ほどあったが、織られて出てくる帯には”これ”といったものがなく、取引先の問屋が「まったく下手ものばかり作りおって、こんどまたこんなこんなもの作りおったら、しまいやなあ」とあけすけにいうほどの為体落だった。

『女性論文庫 織りびと染びと』 草柳大蔵 大和書房 P74 

長い歴史のある企業ほど苦難の時代があるものです。


当時の詳細な様子はわかりませんが、自動織機が普及し効率を追求したものづくりの結果、出来上がる帯に個性が無くなってしまった、ということでしょうか。

このままのスタイルを貫くのか、自社のものづくりを見直すのか。
昭和34年の帯屋捨松は、大きな岐路に立たされていました。

そんな危機に当時の捨松代表の木村氏が助けを求めたのが、西陣伝説の図案家と呼ばれる徳田義三氏だったのです。

徳田義三氏は1906年、西陣の機屋生まれ。型友禅や織物の図案家として活動。晩年は奈良時代の染色「天平の三纈(さんけち)」のひとつである夾纈(きょうけち・・絞り染めのこと)の復元に尽力。
古典文様の伝統を継ぎながらも、それまでにない革新的なデザインの図案を制作した。

徳田義三氏が、当時の帯屋捨松にした助言は「量から質への転換」でした。

捨松の決断

「教えてあげるから機の台数を八十台まで減らしなさい。まず、自動織機を追放することです」

前著 P74 

250台ある機を80台まで減らす・・。
ほぼ三分の一まで商品の生産数を落とすということです。自動織機から減らすので出来上がる帯の数はもっと少なくなるでしょう。

もちろん容易なことではなく、生産数を減らしてそれまでの売上規模を保てるかどうかはわかりません。実際、難しいでしょう。

経営が立ち行かなくなる恐れすらあります。
雇用している従業員のこと、取引先、各種支払い、抱えている在庫など、問題が次々と立ち上がってくるはずです。

いくら徳田義三氏を信じていたとしても、「はい。わかりました。」と簡単に決断できる助言ではありません。

徳田義三氏の助言は、経営方針に関わるもの。
帯屋捨松を大きく変えてしまうものでした。

(前略)徳田氏の提供する図案が経営を”量”から”質”にかえなければ生きないからであった。いや、もう少し先をいえば、徳田氏の提案は「機屋はなんのために帯を織るのか」という”原点”にかかわっているのである。

前著 P74 

大変な迷いもあったかと推測されますが、帯屋捨松・木村氏は決断します。

徳田義三氏のもとで、帯専門の機屋として”原点”に立ち返って再スタートすると。

苦悩の時期

変化することには、痛みが伴うものなのでしょうか。

 二百五十台を八十台にしろ――木村氏はこの声に忠実にしたがってしまったのである。これはまさに”敵前展開”というより、全く性格のちがう機屋を、もうひとつ、つくるようなものだった。
 実際には、機の台数は八十台にとどまらなかった。二年ほどして二百五十台は八十台に減ったが、それからさらに減っていき、ついには八十台のそのまた三分の一、二十五、六台というところに落ち込んだのである。

前著 P75

機がさらに減ってしまった原因は、徳田氏の図案がむずかしく、「織り子がハダシで逃げだした」から。

徳田氏の見本品が完成すると帯屋捨松に届けられる。
徳田氏の帯は、量産など考えられていない芸術品。徳田氏自身の言葉を借りれば「スーパーカー」。

「波を入れる」と表現される大変な手間のかかる織り方で、「色調」「風合い」が考え抜かれた帯。
とても同じように再現できるものではなかったのです。

まさに、図案と織り手との真剣勝負であって、「帯を織ること」に真正面から向き合える者しか残らなかった。
同じ帯であっても、元となる哲学の違いで、制作者に求められる技術・心構えはまったく違うのだとわかります。

当時の木村社長の心情を考えると胃の痛む思いです。
求める理想は高く思うようにたどり着けない、仲間はどんどん離れていく。

しかし、この時代を乗り越えてきたからこそ、現在の帯屋捨松の創造力があるのです。

生まれ変わった帯屋捨松

 織機が二十五台になったとき、木村登久次社長は「すこし気張らな、あかんな」と思った。食いとめなければ会社そのものが消滅してしまうのである。なんとも心細いところまできたのだが、その時点で「帯屋捨松」は、かつての西陣の機屋がそうであったように、美意識を軸とする機屋にむかって離陸していた。木村社長、三十歳になったばかりの頃である。

 それから今日まで、「帯屋捨松」はひとつの性格を担った機屋に成長した。西陣の真ん中に位置を占めて、「帯を織ること」にいつも自足している機屋、木村社長の言葉をかりれば「ああ、帯屋になってよかったなあ」という思いを持続できる機屋に変貌したのである。

前著 P75

現在、帯屋捨松ではすべての図案を社内で起こしています。

帯屋捨松 意匠部 | 帯屋捨松の日々

こちらの帯屋捨松さんの公式ブログでは、図案作成の様子が写真付きで紹介されています。
「織り」のできる職人でもあるスタッフが、配色を含めた完成形を想像して図案を制作しています。
織の技術、糸の知識があることで、作成される図案は「色調」「風合い」の考え抜かれた精度の高いものになります。

ブログ内のその他の記事を覗いてみると、図案を描く和紙にこだわっていたり、型絵染めのような方法で図案を作成していたりと、自由度が高くかつ情熱的な創作の様子がわかります。

優れた図案と織り手の真剣勝負から、質の高い帯が生まれてくる。徳田氏時代の「帯を織ること」に真正面から取り組むものづくりが行われているのです。

また同時に、社員の育成と信頼が、魅力的な帯を生む源泉になっていることが伝わってきます。これも、厳しい時代を乗り越えてきた帯屋捨松だからこその強みなのです。

捨松の帯をみる!

帯屋捨松には、「帯を織る」という原点に立ち返るような転換の歴史がありました。

歴史から得たものづくりへの姿勢が、古典的でありながらも新鮮で魅力的な「捨松」らしい帯を生み出していく源泉となっていたのです。

きものKUREHAでは、2021年11月に展示会『帯屋捨松の世界』を行います。

『帯屋捨松の世界』

と き:
2021年11月6(土)・7(日)・8(月)

ところ:
きものKUREHA店内
長野県茅野市ちの3502-1ベルビア2F

皆様のご来店を心よりお待ちしております。

ご予約・詳細についてお問合せは
お電話:0266-75-2908
メール:mail@k-kureha.com
またはLINEよりお待ちしております。

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きものKUREHA
長野県茅野市ちの3502-1ベルビア2F
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木曜定休