着物の色の歴史‣色の意味と起源を紹介‣『日本の色を染める』吉岡幸雄

きもの今昔あれこれ

日本人はどうやって色を発見したか

日本人は色にこだわる民族性があると思います。
色に付けられた和名の数をみても微妙な違いにこだわって呼ばれてきました。

たとえば同じ赤系でも
〔牡丹・つつじ色・紅・緋色・蘇芳・茜・臙脂・・]
実にたくさんの魅力的な名前がつけられています。
草花な自然に由来する名前も多く、日本人の本当に自然を愛し親しんできたのを感じます。

「四十八茶百鼠」という言葉もあり、茶色やグレーにいたっても多くの種類があることを表しています。
江戸時代の「奢侈禁止令」によって、庶民の着られる色がせいげんされたことに由来する言葉です。
微妙な差異にこだわって色に名前を付けるということは、その区分・差に価値があるからです。江戸時代から、身に着けるものによってアイデンティティを確保していた様子が浮かんできそうです。

日本人が色にこだわる理由を探っていきます。
今回は、染色家の吉岡幸雄(よしおかさちお)さん(1946-2019)の著作から、日本人と色との出会いがどんなものであったか紹介します。

吉岡幸雄『日本の色を染める』

紅花で艶やかな赤を染め、紫根から深い紫を取り出す。色を重ね、その微妙な変化を楽しむ。飛鳥・天平の美や『源氏物語』の世界は、その繊細な色彩感覚と高い染織技術を抜きにしては語れない。数々の古代植物染の復元に取り組んできた著者が、実作者ならではの眼を活かして読み解く、日本の色と衣と染の歴史。

https://www.amazon.co.jp/dp/4004308186

東大寺正倉院には、現代まで通じる着物の柄、いやデザイン全般の元となるような文化財が収められています。シルクロードから渡ってきた工芸品が1200年以上も保存されているのです。

染色に携わる者としても、ここにのこされた「正倉院裂」と称されるおびただしい数の裂類、そして彩色された和紙が、仕事のおおきな指標となっているのである。

『日本の色を染める』p56

著者はそんな正倉院展に40年以上も通い、また歴史的な文献や裂帳を参照しながら古代の染色技術の復元に努めていました。

今回、紹介する本は224ページの親書ですが、縄文時代の日本人の色との出会いから江戸時代までの染織史が「色」を中心にコンパクトにまとまっていて、きもの好きな方はもちろん、日本史好きな方、源氏物語に興味がある方、ファッション好きな方などなど幅広くおすすめできる本になっています。

日本人と色との出会い「赤」

縄文時代にさかのぼります。縄文時代には、土からとれる朱色系の顔料によって土器に彩色していたことがわかっています。
これを彩文土器といいます。(福井県三方町鳥浜貝塚から出土)

土器に朱彩するということは、それ以前から身体そのものを装飾するために肌に直接塗ることも行われていた証でもある。やがて衣服を着るようになると、それに朱を塗る、あるいは朱で染めるということになった。さらに死者を葬るときに遺骨にも塗る。いわゆる施朱がなされた発掘品がある。これは古墳時代へ受け継がれていった。そして、その延長線上に古墳の内部への赤色を中心とした装飾があるのである。畏怖と畏敬の念が、赤という色にこめられていたからにほかならない。自然界で生活する人間にとって大切な、根源をなすものへの恭敬(きょうけい)でもあったといえる。

同著 p6

私のイメージする縄文人は全体的に茶色な印象だったのですが、実際は「赤」がとりいれられていたのかもしれません。
自然の緑の中に「赤」色をみつけるとドキリとしますよね。
なにより「赤」は、怪我をしたときに流れる血の色、生活に重要な役割を果たす「火」の色です。どちらも生死にかかわります。
縄文人は自分の体から流れる「赤」をみて、存在の神秘を感じていたと想像できます。赤いモノは「自分の延長」というといいすぎかもしれませんが、とにかく赤は特別だった。
なので、身の回りの衣服や土器から、死者にお墓にいたるまで「赤」で塗っていたのですね。

日本人と色との出会い「黒」

黒の発見には2種類あると書かれています。ひとつは「赤」の延長、焚火をしたり土器を焼いたりした後に溜まる煤(すす)から黒を発見した。
もうひとつは、

鉄分が多く含まれる土地に水がたまると、沼地や泥田のようになって黒味のある泥土がいくつもできる。そこに木が倒れたり、葉が落ちてしばらくすると、樹皮の茶色や枯葉が黒くなっていく。これは植物に含まれる茶の色素、つまりタンニン酸が、鉄分が溶解している水と出会って黒く発色するという化学反応である。

同著 P12

着物に詳しい方ならお気づきかもしれません。この化学反応は、大島紬の黒を染めるのと同じ反応なんです。
大島紬はタンニンを多く含むシャリンバイの葉を刻んで煮出した液で絹糸を下染めし(茶色になる)、鉄分を含む泥田に浸す作業を繰り返すことで黒く染めていく。
私は大島紬の染めを知ったとき、こんな科学的な方法をどうやって発見したのだろう?と不思議に思ったのですが、このような自然観察から黒に染める方法を発見していったのかもしれません。

現在、黒は喪の色を連想させますが、明治以前の喪の色は「鈍色(にびいろ)」でした。
従来、黒は「神の色」として捉えられていました。
古事記に登場する色は「赤、青、白、黒」の4色なのですが、日本国をつくったとされる「大国主(おおくにぬし)」は黒に縁のある神様なのです。大国主を祭神とする出雲大社は「黒木造り」であり、今は七福神の一柱である大黒様の習合されたりしています。

日本人と色との出会い「白」

今日でも沖縄県で芭蕉布を織る人びとは、織り上がった布を内海の静かな海岸にもっていき、海面すれすれに布を張って、太陽の光と海面からの反射を利用する「海晒し」をおこなっている。新潟県の越後上布の産地である湯沢地方は、早春に日が射すのを待って、残雪のうえに布を広げて晒す「雪晒し」で知られる。また、奈良県と京都府南部の木津市も古くから麻の産地として知られ、「奈良晒し」「南部晒し」と呼ばれている。この地方では白くするために茶畑の茶木の上や草叢、さらには、白砂の浜がつづく木津川の河原に布を広げて紫外線に晒すのである。

同著 P20

直射日光の紫外線は酸化作用によって織物を漂白する効果があります。水蒸気に含まれる酸素がオゾンに変化することによって得られる効果といわれています。織物を日に「晒す(さらす)」して漂白する。
昔の人はこれで織物に「白」を発見したのでした。

白は「穢れ(けがれ)」をはらう色。
神官の白衣や、御幣(お祓いの際にもつ捧げもの)には白く織られた紙が用いられます。
白無垢や出産を祝う色としても知られています。悪いものをはらって、新しいスタートをイメージさせる色です。
織物の歴史においても「白」を知ることで、本格的な染色が始まっていきます。

まとめ

わが国に染色の技術がもたらされて以来、染めや織りに従事した職人たちは、自然の野山に育成する植物からいかに美しい色を引き出すかを、さまざまに試みてきただろうし、日々知のにじむような努力をして、染め織りの方法を考え出してきたことは間違いない。つまりは自然との格闘の歴史であったのだ。

同著「はじめに」より

日本人と色との出会いについて、『日本の色を染める』を参考に紹介しました。
色と自然は切っても切れない関係があります。原初は自然を観察し、色を身の回りに取り込もうとする、そんな活動がありました。
染織が発展すると、理想の色を織物に再現するためにまさに職人たちの自然との格闘がはじまっていきます。

人間国宝の染織家、志村ふくみさんの『一色一生』を読んでも、ひとつの色を自分のものにすることの大変さをうかがい知ることが出来ます。