二度もの断絶危機を乗り越えた‣牛首紬の特徴(釘抜き紬)

染織めぐり ∼さんち・作家紹介∼

釘抜き紬とも呼ばれる牛首紬とは

牛首紬の特徴を2019年に石川県白山市にある織元「白山工房」を見学させていただいた経験をもとにご紹介します。

金沢駅から車で一時間ほど、日本三名山のひとつ「白山」の麓で青い水をたたえる手取湖(ダム)の畔に牛首紬の郷 白峰 はあります。
冬場は2mを超える豪雪地帯。
深い山間地のために稲作はほとんどなく、江戸時代中期から養蚕と製糸業が盛んな地域です。
いち時は、手取ダム建設のために移住を余儀なくされ途絶えかけた牛首紬ですが、玉繭を用いた独自の風合いでヨーロッパのファッションブランドにも注目され、日本においても憧れのきものにふさわしい織物となっております。

そんな牛首紬の特徴を次の3点に焦点をあててご紹介します。
☆2頭の蚕がひとつになった「玉繭」がつくる小節の魅力
☆独自の高機「玉糸機」で丹念に織られる丈夫さ
☆「牛首紬」二度の断絶危機

そもそもなぜ「牛首」か

牛首紬の郷 「白峰村」明治初期までの呼び名が「牛首村」。
約1000年前、白山を開山した泰澄(たいちょう)という僧が村の守護神として 「牛頭(ごず)天王」を祀ったことに由来します。

牛首紬の誕生

豪雪地帯の白峰では春と夏の2回、繭をつくっていました。
繭が選別される中で玉繭(2頭の蚕がはいった繭、形も丸っこい)は売れないくず繭でした。
この玉繭を自家用として外の作業が制限される冬の間、雪で一階部分が埋もれてしまう家の2階や3階で織られていた紬が「牛首紬」のはじまりです。
玉繭を使った手挽き糸の技法は、代々受け継がれ次第に評判となり江戸時代には全国へ出回っていたようです。

2頭の蚕がひとつになった「玉繭」がつくる小節

玉繭は2頭の蚕から出来ているため、どうしても糸が2本出て絡まりやすい特徴があります。紬は繭をつぶして広げ真綿という塊にしてから糸をつむぎますが、牛首紬は繭から直接糸を引き出す「のべ引き」の技法でからまらないよう丁寧に挽いていきます。

90度の鍋中で60個の繭から一本の糸をひく。

玉繭はその特徴から織り上げたときにどうしても「節」ができます。そのため当初は「くず繭」として弾かれ自家用とされていました。しかし、玉繭から糸を挽く技術が熟練していくにつれ織物として評価され「小さな節」は魅力となりました。

独自の高機「玉糸機」で丹念に織られる丈夫さ

牛首紬は
緯糸(よこいと):節のある太い玉糸
経糸(たていと):生糸
で織り上げられています。経糸が生糸なので上質な光沢をもちながら味のある質感に織り上がっているのですね。

もともとが農家さんが自家用に織っていたルーツのある牛首紬。
そりゃあ、丈夫につくりますよね。
全国に流通する過程で「釘にひっかけても釘のほうが抜ける」ほど丈夫な釘抜紬と呼ばれ人気を博しました。

糸取りから織り上がりまで、一貫作業でその品質を守ってきた牛首紬。

白山工房‐製織作業場のようす

現在の工房では、玉糸の特性を生かすために独自の「玉糸機」で紬が織られています。「玉糸機」の特徴はこちら
https://ushikubi.co.jp/aboutushikubi/tamaitobata01/#faq08
(白山工房をもつ西山産業の牛首紬HP)

「牛首紬」二度の断絶危機

牛首紬は、1800年ごろには「釘抜紬」として丈夫さが全国に知れ渡っていました。白峰の産地は品質向上の努力によって生産を拡大させていきました。しかし!
「昭和恐慌」から戦争突入によってわずか 1軒まで織手が減少してしまうのです。牛首紬存続の危機に村民の西山鉄三さんが立ち上がり、養蚕に一から取り組むことで牛首紬は息を吹き返します。

しかし再び!
1979年完成の「手取川ダム」建設によって産地の村自体がダムの底に沈んでしまうのです。
1度ならず2度までも、絶滅の危機に直面した牛首紬ですが産地を手取湖の畔に移し、村に伝わる技術を復活させていきます。

現在の牛首紬

牛首紬の染色方法は主に草木染です。
ですが牛首紬が再び生産拡大するきっかけになったのが加賀友禅など新たな染色方法との出会いでした。

加賀友禅・バティック・絞り・刺繍・ローケツ・ぬれがきetc…
アイテムも訪問着・袋帯・九寸・夏物・無地etc..

今の牛首紬は本当に多彩です。
通常、白生地は染色ブランドのラベルが優先されて市場に出ますが牛首紬は、牛首紬の証紙(タグ)で販売されます。それだけ品質が高く個性が強い生地質なのです。
伝統技術の存続に大きなストーリーがあり丈夫で味のある最高品質の生地に
あなた好みの染めがのっていたら。
牛首紬にご興味持たれた方は、是非、お好みを探してみてくださいね。

最後までお読みいただきありがとうございました。